久しぶりに本の記事でも。
『斜陽』
あの太宰治の代表作の一つである。
ある没落貴族のお話ではあるが、太宰らしい人間のカナシサが滲む物語であった。
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物語の舞台は終戦後の昭和20年。かず子とその母は生活苦のため、東京の家を売り、伊豆へと移り住む。
かず子を中心として描かれ、母の死、戦争へ行って戻ってきた兄の死、そして自身の生活の変化と一つの恋のようなものが、日常の空気を読むようにして書かれている。かず子は最後には不倫の子を宿し、その子を生み育てる決意を書簡として相手の男(小説家)に送りつける。
夕日がお母さまのお顔に当って、お母さまのお眼が青いくらいに光って見えて、その幽かに怒りを帯びたようなお顔は、飛びつきたいほどに美しかった。そうして、私は、ああ、お母さまのお顔は、さっきのあの悲しい蛇に、どこか似ていらっしゃる、と思った。そうして私の胸の中に住む蝮みたいにごろごろして醜い蛇が、この悲しみが深くて美しい美しい母蛇をいつか、食い殺してしまうのではなかろうかと、なぜだか、なぜだか、そんな気がした。 斜陽とは傾いた太陽のことだ。またそこから転じて没落することを表したりもする。
太宰治の文章は現代の人にも読みやすいと思う。
近代文学、に属するかどうかはさておいて、文章もそうだが、何よりそこに潜む精神がとても現代の日本人に馴染みのあるもののように感ぜられるのだ。
この『斜陽』という小説は「斜陽族」などという言葉を生み出すきっかけにもなり、世間でも高く評価されることになった太宰の自信作らしいが、やはり太宰の人生がそこかしこに表現されているのだと思う。
一家は生活は落ちぶれたものの、それでもやはり中身は貴族のままで、かず子の母なんかは優雅ではあるけれど、泥を食らうくらいなら華麗に散りましょう的な、ある種いさぎよいカナシサがその精神には存在している。
それは我々現代人にもどこか共通するプライドとは呼ぶにはあまりにも幼稚な、それでいて実に人間臭い人生の価値観で、今の自分の生活水準を落とさざるを得なくなった時、その先に「死」や「自殺」というものが立ち現れるのは、何もここに描かれている一家だけでは無いだろう。
ただラストでかず子は死を選択しないのは、新しい生命が宿ったからか、兄の遺書を読んだからか、それとももっと別の事情があるのかは、読んだ個人個人で感想が異なるのだろうが、それでも太宰が斜陽の末に見つけ出した、一つの希望なのかも知れない。
相手への嫌がらせの書簡は、人間としてはとても小さな、それでいて非常に人間臭い行為であると思うが、それによって生きる決意めいたものが表現されているのは、ある意味で皮肉だが、別の意味では非常に人間というものの本質を捉えているように感じられる。
人は妙なプライドを持っている。
それは他人からしてみれば捨てればいいと思えるほどちっぽけだったり、惨めだったりするものだ。
けれどもそれがその人の「生」を支えていたりするのは、人間がちっぽけな存在であると同時に、生きることとはそんな些細なこだわりの副産物なのかも知れない。
ということなのだろう。
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