ノンフィクションとか、フィクションとか、関係無く、
唯一つの物語として読んだ、大崎善生の著書である。
確かに事実を追って書かれたものであるけれども、
予備知識無く読めば、通常のノンフィクションものに抱くイメイジでは
捉え切れない作品である事は、直ぐに(または徐々に)分かってくる。
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最初は何気無い記事だ。
それどころか、作者の日常の方がより濃い印象を残すかも知れない。
それぐらいに、遠い所に存在していた、けれど、事実の欠片で、
誰しも経験するだろう、何故か心のどこかに引っ掛かって、忘れようとしても、
どうしても気に為ってしまう。
そんな小さな棘みたいなものだった。
ずっとずっと遠い場所に在る其れは、手を伸ばさなければ、足を伸ばさなければ、
喩え「事実」と分かっていても、幻想(フィクション)と何ら変わりない。
そんなものだ。
けれど(こういうのを運命的と言うのか)、筆者は手を、そして、足を伸ばした。
其れは唯「彼女に呼ばれた」からだ(もちろん、霊とか、幻聴とか、そんなもの
では無く、充分な比喩である)。
近付けば近付くほど、確かに「形」は見えてくる。おぼろげだった其れは、
徐々に「一つの何か」に成ってゆく。
けれど。
何かが違う。
痛ましい19歳の少女の死が描かれたもの?
それとも、30過ぎた男性とまだ10代の女性との、悲恋?
どれも違う。
狂った男に騙された女性の末路?
其れも違う。
違う。
事実は一つしか存在していないかも知れない。
けれど、其れをどう見るかは、それぞれに任せられている。
世の中の多くの事象がそうであるように、此の一つの事件についても、同じだ。
ドナウ河を、まだ見た事は無い。
ひょっとすると、そこに連れて行かれても、最初は其れが河と思えないかも
知れない。
見ても、触れても、感じても、分からないものも、沢山在る。
でも、何も感じない訳でも無い。
確かに存在する「何か」。
此れはそんな、一つの「物語」であるのかも知れない。
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