うぶめのなつ
ミステリィ好きな人ならその大半が読んでいるかと思われる本作「姑獲鳥の夏」である。京極夏彦のデヴュ作にして、日本のミステリィ界に衝撃を与えた一作と言っても過言ではない作品。
扱っているのは妖怪、脳と認識の問題、妊娠二十箇月という異様な妊婦、他にも細々としたものはあるけれど、メイン・ディッシュは主にそれらと言ってよい。
そして探偵役とも言える中禅寺秋彦は言うのだ
「この世には、不思議なことなど何もないのだよ、関口君」 と。
そんな怪奇にして明解な京極堂の物語について。
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最初に読んだ時にはその、ある種掟破りとも言えるトリックに目を奪われて、かなり細部を見逃していたけれど、再読して、実によく考えられて、論理的に書かれているというのが理解出来た。
一応メイン・トリックとも言える「二十箇月の妊婦」については1(章)において話題こそあちことに飛びつつも、しっかりと理解出来るように書かれている。勘の良い者ならある程度の推測は立つだろう。特にこの京極堂のシリーズそのものを鑑みた時、この作品の序章は実によく出来ているし、よく考えられているし、なかなかのヴォリュームでありながらも無駄は無いと思える。
人間は世界を見る時、実際には目で見ているのでは無く、視覚から得た情報を元に構築された「脳が見せる世界」を見ている。それが普段の我々の「日常」だから、その「脳が見せる世界」=「事実」なのだと思ってしまう。けれど、我々が認識出来る世界はカーテン一枚引かれてしまえばその向こう側すら分からない、その実、何とも頼りない、乏しい世界認識の力しかないのだ。視覚情報として取得出来ない部分などは人間様お得意の「想像力」によって補われたもので、カーテンを捲ってみるまでそこに本当に何が隠されているのかなんて分からないのだ。
この本はそんな読者の、普段気づいていない「認識の世界」という問題を、我々にそっと、けれど衝撃的に突きつけてくれる。
更に、メイン・トリックとも言える「二十箇月の妊婦」の謎の一部が解かれた後、この作品は我々に「では人間とは何か? 我々自身とは何なのか?」そんな人格の問題にまで踏み込もうとしてしまう。
京極夏彦と言えば妖怪。そんな印象をお持ちかも知れないが、妖怪というのはそもそも、我々が物理や科学といった「常識」の枠に入らないものごとを「妖怪」という「もの」に押し込んでしまっただけで、この作品の序章の段階の関口と同じように「認識出来ていない」「ものごと」のこと、それを「妖怪」と呼ぶのだ。
だから、彼は言う。
「この世には、不思議なことなど何もないのだよ、関口君」 と。
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